会の概要

大田山の会は1966年4月9日に「大田勤労者山の会」として創立しました。
当会は設立されてから約半世紀ですが、毎年20ほどの会主催の登山(会山行)と会員個人が計画し実施する登山(個人山行)を500以上行っており、30歳台から70歳台の会員がハイキングや縦走、沢登り、登攀、フリークライミングなど様々な登山を楽しんでいます。

現在の会事務所は2013年に移転し、会運営に関わる打合わせや、会が所有する登山装備類の点検や補修、登山に関する知識習得のための学習会や会・個人が実施する登山の準備をする場所として活用しています。

当会は登山計画から下山までを管理するシステムを安全登山のために運用しています。すべての登山計画や下山報告は会員であれば閲覧をすることができます。他の会員が行った実際の登山の情報を知ることができ、これから実施しようとする登山について貴重な情報源として活用されています。

会長 秋山 亘

会員数 67名(2024年9月31日現在、正会員のみ)

男女構成比 男性43名 女性25名 平均年齢 56.9歳

年間の活動

例会

会員相互の交流を図るため、毎月第1水曜日19:00~21:00に例会を開催しています。

場所は南蒲一会館(大田区南蒲田1-20-15)

※リモート&会場参加のハイブリッドでの運用をしています。例会終了後には蒲田駅前の居酒屋で懇親会を開催。

機関誌「モルゲンロート」の発行

毎月発行される「モルゲンロート」には、会からのお知らせや、山行の計画、会員の寄稿による山行報告などが掲載されており、PDFでの提供を原則としています。

登山技術のレベルアップ

基礎的な岩登りの技術、テントの張り方、雪山での歩き方、山行計画書の提出方法など、親身にサポートいたします。

自然保護活動

自然保護活動として毎年クリーンハイクを行っています。山に捨てられたゴミを回収するなど、自然との共存を目指す活動も行います。

会員の居住地

大田区東京都(大田区外)横浜市川崎市その他
35名14名11名4名4名

会員の血液型

A型O型B型AB型不明
23名25名10名9名1名

会の事務所

会独自の事務所を保有しています。各種会合、講習会の他、会で保有する共同装備を保管しています。

東京都大田区蒲田4丁目42-12 蒲田新生ビル2階 205号室

JR・東急線蒲田駅東口からも 京急蒲田駅からも徒歩約7分(550m)
蒲田新生ビルは蒲田郵便局の環八を挟んだ向かいのビルで1Fに「鍵の救急車」や「すき家」があります。

会の共同装備

事務所には会が所有している装備類を保管しています。

  • 複数人で使用するテント(2~3人用・4~5人用・6~7人用など)
  • タープ、コッヘル、フライパンなどの食器類
  • クライミング等で使用するロープ、クイックドロー、スリングなどチームが共同で使用する装備類のほか、個人装備品の類いですが貸出し用としてハーネスやヘルメット
  • 冬季登山に携行するビーコン、プローブ、スコップなどの冬山3点セット

などが会所有の装備品としてあります。会員はこれらの装備を借り出して無償で使用することができます。
少人数で縦走登山をするような場合、ソロテントではなく4~5人用のテントを本体やフライ、ポールをメンバーで分担して持てば1人あたりの重量は軽くなりますし、メンバーがテントに集まって食事をしたり語らいをしたりすることも登山の楽しみですので、会の装備品ではテントやコッヘル等の使用頻度が高くなっています。
個人でいろいろな装備を揃えると高額な費用が必要です。登山に慣れて必要な装備品を確認して買い揃えるまで、会の装備を借りて使うことができることは会員にとってメリットを感じられると思います。

山登りのシルエット

会の沿革

1960     戦後の登山ブームが起こり大勢の人が山に押しかけた。技量や休日の少ない人たちが大勢押しかけたことにより遭難事故を激増させることになった。誰でも入れる民主的な山岳会が要求され日本勤労者山岳会(労山)が設立された。
ブームに乗り最盛期には1000名を越える会員を要したが2~3年で弱体化し衰退の道をたどっていった。
1966一度衰退した労山も各地に組織ができ、7月第1回登山祭典が上高地で開かれ大盛況となった。これを期に日本勤労者山岳連盟として発足し全国規模で急速に発展をしていった。
4月9日蒲田の若葉婦人会館で大田勤労者山の会の創立総会が開かれ、ここに大田勤労者山の会が誕生
1968第1回目のバスハイクが尾瀬で行われ一般から38名が参加。夜行日帰りや小屋泊りの山行からテント山行がほとんどとなり、登攀と冬山に目が向けられるようになり会の基礎固めの年となった。この年の入会者は21名。
19706月に尾瀬バスハイク(バス2台)8月に映画会(120名参加)10月には紅葉バスハイク、12月にはスキーバス(バス3台)が行われた。
これにより収益が得られ冬用テント等かなりの装備を購入した。入会者15名。会員数40名を越える。
1971創立時の会員が減る一方、若い人が多数入会しひとつの転換期となった。運営委員会のほかに専門部が設けられると共に山行の企画・実施・管理を行うリーダー会が設けられた。
2月には待望の会事務所が設けられた。10月24日には創立5周年記念パーティが開かれた。会員数は50名を越えた。
1972登山要求の違いから登攀研究会の活動が定着すると共に、縦走研究会やハイキング研究会などグループ化が進んだ。労山初の海外ツアーであるヨーロッパアルプスへ会から4名が参加した。機関紙大田労山ニュースは「モルゲンロート」改名された。会員数60名を越えた
ハイキング志向の人は別のクラブに集中することになり73年6月に「大田ハイキングクラブ」を分離独立させた。
1974創立10周年を前に「厳冬期後立山連峰全山縦走」の目標が設定された。この年は後立山連峰の北半分(白馬岳~唐松岳)を縦走することとしサポート隊を含め4隊、24名の参加で予定どおりトレースされた。
一方停滞していた登攀研究会に代わってTOCC(東京大田クライマースクラブ)が発足した。11月には蒲田1丁目の和朗居荘に新事務所を開設した。入会者26名。会員数60名余。
1975厳冬期後立山連峰全山縦走の2年目として五竜岳~蓮華岳が行われ、ピークアタック隊を含め21名が参加し目標をトレースした。これで7年間にわたって取り組んできた後立山連峰の冬期トレースが終わり会の目標は北アルプス南部の槍ヶ岳・穂高岳へ転進することになった。
また地域に根ざした山岳会として登山の普及と向上を図る目的で宣伝活動を行い7月に「映画と講演の夕べ」を大田区民センターで行い450名の参加を得た。9月にはモルゲンロートが通巻100号となった。
1982第1回の「公開沢登り教室」を丹沢・セドの沢左俣で行った。安全を期すため下見や説明会、マニュアルの作成など多くの力を費やしたため会員の集中度が高まった。
1985創立20周年記念山行「日本列島横断トレース」が行われ会員30名が参加して大成功を納めた。山行内容は北アルプス・栂海新道末端の日本海・親不知から太平洋・御前崎まで。海外ではマレーシア・キナバル山に3名が参加し新しい登攀ルートを開拓した。
19864月6日「創立20周年記念パーティー」が大田区生活センターで開催され会員・OB・来賓・子供合わせて63名が参加し盛大であった。
公開沢登り教室を奥多摩・水根沢で実施。第1回岩登り教室が9月城ケ崎で外部講師を招いて行われた。 この頃よりフリークライミングという考え方が会の中にも浸透し数多くのクライミングが行われた。
1990大田山の会の特別会員と会友を一緒にして「大田山友会」が設立された。大田勤労者山の会、大田ハイキングクラブ、大田山友会で「大田区勤労者山岳連盟」(都連盟の補助組織)が組織された。
1995創立30周年を迎え、海外遠征のトレーニングを目的にした正月合宿が明神岳東南稜で、5月合宿が槍ヶ岳・硫黄尾根でそれぞれ行われ11名が参加した。そして7月には会独自でペルーアンデスへ海外遠征が行われ5名が参加し、うち2名がウルス東峰(5,495m)に、1名がトクララフ(6,032m)に登頂した。最大の目的であったワスカラン南峰(6,768m)はほぼ頂上に達していたが確認ができなかった。
国内ではフリークライミングの合宿が宮崎県・比叡山で1週間行われ7名が参加した。創立30周年記念号として「あしあと13号」が発行された。会員数45名。
2001海外登山が活発に行われた。2000年12月に日本勤労者山岳連盟高所登山学校の南米アコンカグア登山隊に女性3名が参加し1名が登頂した。(日本人女性で2人目のワンデイアッセントと思われる)。ヨーロッパアルプスへは5名が参加しモンブランに全員登頂、マッターホルンには2名が挑戦し上部雪田上まで達したが下山した。また他会の隊とモンブラン((タキュルモアール稜)、ランデック針峰、コスミック山稜(ダン・デュ・ルカン)に1名が登っている。 そのほかトレッキングとして中国・四姑娘に1名が参加した。
活発に山行が行われ年間山行数が250回を越えた。公開沢登り教室には一般から6名が参加。会員数50名。
2005会創立40周年を迎えるにあたり40周年記念山行として「日本高座40山」が大々的に取り組まれた。今回は40年の歴史を多くの人で祝おうと初めて会員OBにも声をかけ一緒にトレースすることとした。参加した会員は27名(延べ191名で40山トレース)、OBは9名(延べ31名で19山トレース)となり目的を達成した。またこの取り組みの中で9月18日北ア三俣蓮華岳テントサイトに集中登山を行い、7コースから28名(内OBは8名)が集中し感激の交流会を成功することができた。
20064月8日、大田区立産業プラザPIOで「創立40周年記念」パーティが来賓18名、OB23名、会員35名、会員家族2名の78名で盛大に開かれた。「冬季登攀教室」が八ヶ岳・阿弥陀岳北陵で取り組まれ、4名が参加した。会山行としては新年山行を箱根・明神ケ岳(14名)、谷川岳での公開冬山登山教室(7名+一般1名)、巻機山への残雪期縦走(4名)、丹沢・勘七ノ沢での公開沢登り教室(14名+一般4名)が実施された。ほかに労山祭が丹沢・戸沢出会で3地区交流会が湯河原幕山であった。総山行数は230件余であった。会員数は40名。
第42回総会(2006年12月)で会の名称を「大田山の会」に改称し、会規約も大幅に改定された。
2007安全登山委員会が新設され、安全登山教育と訓練を継続的に取り組めるよう改めた。山行管理者を複数配置し山行管理の在り方を明確にした。新年山行を箱根・駒ヶ岳(15名)、公開雪山教室が金峰山(10名+一般1名)で、残雪期の縦走を苗場山(11名)、クリーンハイクを百蔵山(15名)、公開沢登り教室は奥多摩水根沢(19名+3名)、公開夏山縦走は鹿島槍ヶ岳(13名+一般4名)、秋山縦走を中央ア南駒ヶ岳(8名)で実施された。ほか公開日帰りハイク、沢泊沢登りが取り組まれた。当年度よりホームページのドメインを取得し、本格運用を開始した。
2010会報(モルゲンロート)の電子配布を開始。例会および山行ミーティングにて講習を行うようにして集会の活性化をはかるとともに会運営ならびに集会の司会や記録などの負担をすべての会員で共有・分担する施策を実行した。会単独で遠征隊を組織しネパール/コンデ・リ(クワンデ)に3名が登頂した。
2011会員数は70名を超え、クライミングやより難しい登山への志向が広まるとともにシリアスな事故や救助出動も発生するようになり安全面の指導や事故対策の必要性に迫られた。会創立45周年を記念し、丹沢ユーシンにて集中山行を開催した。東北大震災のボランティア派遣や義援金送金を行った。
2013 2月に会事務所を現在の大田区蒲田に移転した。安全かつ効果的に岩トレやクライミングを行うために、クライミングコーチらにより「岩トレの手引き」が作られた、山行ミーティングで定期的に講習が行われるようになる。
2014入会者が増え会員数は80名に達し、個人山行数も560山行と前年と比べ27%増加した。その一方で経験に乏しい初級者の割合も増えた。様々なレベルの会員が揃う中で会山行やトレーニングをどのように行っていくか、レベルアップを課題とした討議が積極的に行われ、ミーティングでの講習会実施を充実させた。また教育の一環として登山学校を開催した。(縦走とアルパインの2コース)
会山行は新年山行で三浦アルプス(30名)、白馬乗鞍岳の雪洞訓練(10名)、マスキ嵐沢で沢登り教室(16名+一般1名)、焼岳~西穂高岳の夏山縦走(14名)、間ノ岳・北岳の秋山縦走(10名)等、活発であった。
2015 会創立50周年を控え、記念事業として会員のアンケートにより選ばれた「50座記念山行」へ挑んだ。結果全体の山行数は大幅に増え、前年比21%増の679山行となった。また9月には50周年記念集中山行として剱沢に31名が集結、飲み歌い大いに盛り上がった。集中山行他、山行数増加を見越して大型テント等の装備を拡充。また、一般参加者や初心者の会員への貸出用として、登攀及び雪山の個人装備を試験的に配備した。登山学校は継続して開催され、参加者のレベルアップが目立った。会山行は沢登り教室のマスキ嵐沢(14名+一般2名)、夏山縦走の蝶ヶ岳・常念岳(8名+一般2名)等

会の規約

大田山の会の規約へのリンク